(前編:ロナルド視点)




新横浜の夜は猥雑としている。
人通りの多い駅前は夜になっても明るい。チェーンの居酒屋の看板を縦に積み上げた雑居ビルが二軒三軒と連なり、その隣にはビジネスホテルとドラッグストアが建ち並ぶ。黒いTシャツを着たキャッチの掛け声が飛び交う中を、新横浜の住人が物慣れた足取りで闊歩する。
そこに有象無象の吸血鬼が加わると、夜は更に騒々しさを増す。もはや猥雑などという言葉では足りず、「しっちゃかめっちゃか」とか「ハチの巣をつついたような」とかが相応しい。事態は過激さを増し、街全体を巻き込んだ大騒動に発展することも少なくない。
そんな地獄絵図を防ぐため、日々のパトロールは退治人の重要な仕事のひとつとなっている。
ビル群に押し込められていた人間たちがガラス張りの檻から解放されるのと反対に、太陽が隠れた後が吸血鬼退治人の仕事時間だ。

まだ夜の浅い時間だというのに既に"できあがって"いるサラリーマンが並列に歩道を塞いでいる脇を抜け、赤いジャケットを翻して街を歩く。
パトロールは大事な仕事だ。小さな異変が大きな事件に発展することもある。退治人として危険の芽は摘まなければならない。
一方で、もうひとつ別の動機もあった。キョロキョロと、危険を探す時とは別のアンテナを平行で巡らせて、注意深く人波を眺める。

「ロナルドくん」

ガヤガヤとした喧噪を抜けて、涼やかな声が耳元に届いた。俺はこの人の声を、どんな雑踏の中でも聞き分けられる自信がある。

さん」

振り返った先で、見知った人が微笑んでいた。

「偶然だな。仕事帰り?」
「うん。ロナルドくんはパトロール?」
「そうだけど、なあ、その呼び方やめてくれよ」
「だーめ。お仕事中でしょう?」

甘ったるい口調で要求を跳ねのけて、ゆるやかに伸ばされた手が胸元のジャケットの端を摘まむ。赤い布地に白い指先が鮮やかに映える。ごくりと、お手本のように飲んでしまった生唾の音は、新横浜の喧噪に紛れて目の前の女のひとには聞こえていないはずである。そう思いたい。

「あ、あー。送るよ。帰るんだろ?」

申し出ると、少しだけ眉を下げた「ありがとう」が返ってくる。「仕事中に申し訳ない」と思っているのだ。当てずっぽうの憶測ではなく、経験に基づく事実である。かつて数え切れないほど交わした応酬で散々聞いた言葉だった。さんの固辞と同じだけ俺が譲らないことを示し続けた結果、いつからか彼女の方が折れるようになった。そんな小さな諦念を掴まえて、この人の領域に踏み込むことを許された気になっていることは、さんには言えないけれど。
ただ並んで歩く、それだけのことがどうしてこんなに特別なのだろうと、書いた作家は誰だったか。橙から濃紺に変わる空の下をさんと歩いているだけで、何もかも満ち足りたようで、同時に痛いほど乾いているような、どうしようもない気持ちになった。心臓が力強く脈打って、鎖骨のあたりにまで上がってきている気がする。目的地に辿り着かなければいい。このままずっと歩いていたい。
新横浜にはムードなど存在しないので、俺のちっぽけな幸福だって塵芥の如く軽い。
ビルから遠ざかり住宅地に差し掛かった頃合で、顔見知りの小学生たちに絡まれた。

「やーいロナルド年上巨乳好き」
「もう揉ませてもらえたか?」
「ふざけんなお前ら早く家に帰れ気をつけろよバカヤロー」

怒鳴りつけて追い払うと、ジャリガキどもはきゃらきゃら笑いながら走り去った。
まったくもって堪えていない。こちらは爆弾を落とされた気分だというのに。せめてそういうおふざけは俺一人の時にしてほしい。いや一人の時でもやめてほしいけど。とにかく今は普段に輪をかけてまずい。何せ、隣にいるのは"年上"で"巨乳"の人なのだ。
偶然の符号の一致ではない。自分の「性癖」を形作ったのは間違いなくこの人であると言える。卵と鶏の因果関係は明白だった。彼女の反応が怖くて後ろを振り向けない。

「そういえば、昨日お兄さんと会ったよ」

パトロールしているふりをしながら顔を背けて遠くの鉄塔の数を数えていると、おっとりとした口調で話しかけられた。
今しがた揶揄われた言葉が、自分に当てはまると気づいていないのだろうか。気づいたところで、何も気にしていないのかもしれない。よく分からなかった。昔から、この人のことはよく分からない。女の人が分からない。
静かに息を吐き、笑顔を作ってから振り向いた。

「ああ、俺もこの前会った」
「うん、聞いた」

さんは、そう言って一層笑みを深めた。幸せそうな表情に胸が痛む。兄のことを考えるだけで、そんなふうにきれいに笑うのかと、愚かな嫉妬に焦がれる。
本当に、ばかみたいだ。分かり切ったことなのに。
この人は、兄の恋人なのだから。

俺が初めてさんに会ったのは、たぶん小学生の時だった。曖昧だが、最初の記憶がないので明言できない。それくらいずっと前から知っていて、ずっと前から「兄の隣にいる人」だった。さんは兄の同級生で、俺にとっては優しいお姉さんだ。直接聞いたことはないが、恐らくヒマリにとってもそうだろう。さんは俺とヒマリのことをよく可愛がってくれた。
あの頃はまださんの方が背が高かったので、半袖の学生服から伸びる白い腕が、俺の髪を撫でるために持ち上げられるのを、眩しい気持ちで見上げていたのを覚えている。さんの隣にはいつでも兄がいて、二人でよく笑い合っていた。
学生の頃は並び立っていた二人の距離感は、兄が吸血鬼退治人の道を選んだことで変化した。退治人は人気商売である。兄は特に女性に人気があったし、所謂アイドルのような扱いをされていたから、特定の女性がいる状況は好まれなかったのだろう。さんは表立って兄の隣にいることはなくなり、代わりに陰から支えるようになった。
あの頃一度だけ、夜の街でひっそりと逢瀬を交わす二人を見たことがある。その頃にはとっくにさんの背を追い抜いていたけど、まだ制服の自分がガキにしか思えず、二人との距離がひどく遠いように感じられた。
兄が退治人を辞めるとまた状況は変わった。さんは再び兄の傍にいるようになって、怪我をして職を変えた兄に寄り添った。恋人の家族仲を心配したのだろう、兄と疎遠になった俺の元を訪ね、よく兄の話を聞かせてくれた。
自分がこの人を女性として好きなのだと気づいたのは、この頃だ。
気づいてしまえば、輪をかけて兄貴に合わせる顔がなくなった。

はじめて会った時は頭ひとつ分は上にあったつむじが、今は俺の目線より下にある。

「さっきの子たち、かわいかったね」
「かわいいかあ?」
「懐かれてるもんねえ」

さんが柔らかい声で言葉を紡ぐ。太陽は更に傾いて、月が存在感を増している。入り組んだ住宅地の奥では人の気配が消え、通りを歩いているのは俺たちだけになった。

「ロナくんも昔はあんなだったよね。ロナくんはもっともっと可愛かったけど」
「覚えてんの?」
「もちろん。ロナルドくん、昔はこーんなにちっちゃかったのにね」

言いながら、人差し指と親指で数センチ程度の隙間を作ってみせる。
何べんも見たはずのやわらかな白い指先に釘付けになる自分に気づいて、自嘲する。

「さすがに、そんなに小さくはなかったろ」

誤魔化すように被り直した帽子の下で口にした言葉に、さんはくすくす笑う。

「それが今やこんなに立派な退治人になって、お姉さんは鼻が高いなあ」
「……姉さんじゃ、ないだろ」

何でもない調子で話したかったのに、ひどく乾いた響きになった。さんは「そうだけど」とむくれた声を出す。

「ロナくんが弟だったらいいのにって、ずっと思ってるよ」

さんはにっこり微笑んだ。
幾度となく聞いた言葉だった。
それこそ、記憶もおぼろげな幼少期から。
さんは愛情深い。恋人の弟だっただけの俺に、身内のように優しく接してくれた。
本当に弟だったらいいのに。
昔は嬉しく感じていたその言葉が真実になることに、いつからか怯えるようになった。別に、今だって望みを持っているわけじゃない。兄とさんは好き合っている。二人が幸せになれば良い。噓じゃない。本当にそう思う。
同時に、自分の気持ちが決定的に終わってしまうことにも怯えていた。
いつも聞きたいことがあった。肯定されたらどうしようという恐怖から、今日まで口に出せなかった。
でも、もういい加減に良いのかもしれない。

さんはさあ……兄貴と、その」
「んー?」

隣を歩くさんがのんびりと相槌を打つ。

「兄貴と……ケッコン、しねえの」
「えっ、ええ?」

さんはギョッとしたように目を開いた。自然、二人の足が止まる。
さんは心底驚いて戸惑っているようだった。当然だと思う。今まで俺がこんなふうに二人の関係に口を出したことはなかった。

「いや……えっ、なんで?」
「悪い、踏み込みすぎてるとは思ったんだけど」

さんから視線を外して地面に落とす。

さん、兄貴が退治人やってた頃、仕事の邪魔にならないように陰で支えてただろ。そんで、兄貴が吸対に入ってからはまた隣で支えてさ。俺、ずっと見てきて、二人のことすげえと思ってるんだ」

本心だった。兄とさんは間違いなくお似合いだった。ずっと、ずっとそうだ。
間違っていたのは俺だけだ。横恋慕なんてしなければ良かった。したくなかった。分かり切っているのに、どうしようもなかった。
ずっと怖かった。いつか、二人は結婚するだろう。「話がある」と呼び出されて、「一緒になることにした」と、幸せそうに告げられる。兄から、さんから、連絡が入るたびに身構えた。今度こそそう言われるのではないかと気が気でなく、そうじゃないことに安堵した。
同時に、もしかしたら、二人を縛っているのは自分の存在ではないかとも恐怖していた。昔から兄貴は俺とヒマリのために尽くしてくれた。自分だってやりたいことがあっただろうに、危険な退治人の道を選び、俺たちを育ててくれた。
だから、さんと結婚しないのも、何か俺たちのためなんじゃないか。
俺の勝手な想像かもしれない。二人は二人の意志で、今の関係性に満足しているのかもしれない。結婚がゴールではないし、どんな関係を選ぶかは個々人の自由だ。
でも、もし俺たち兄妹に何かしらの原因があるのだとしたら。それならば、俺が言わなければならないことは決まっている。

「俺がどうこう言えることじゃないけど」

俺は深く息を吸い込む。

「もし、ふたりがケッコンしたいなら、応援、するから」

みっともなく震えないように細心の注意を払って吐き出した声は、どうにか自然に届いたと思う。
俯いた視界は帽子のツバでほとんどが隠れ、さんの姿は足元だけしか見えない。

「あの、ロナルドくん」

掛けられた声に顔を上げる。俺に向き合ったさんは、当惑しながらも真剣な顔をしていた。こういう人なんだ。昔から、ガキの俺にもまっすぐ向き合ってくれるような。
懐かしさに似た思慕が胸を締め付ける。この人のことを好きだった十数年が喉元を押し上げる。言うべきでない言葉が零れ落ちないように、固く唇を引き結ぶ。
さんが口を開く。
俺は息を詰めて、瞼を閉じた。

シンヨコロマンティカ・デイドリーマー


2025/05/06

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