(後編:夢主視点)
ダイニングバーの間接照明が、男の白銀の髪を暖色に染め上げる。
店内には気楽な空気が流れていた。まばらに埋まった座席で交わされる会話が、BGMと混ざって心地のいい雑音を作っている。
男は六つあるテーブル席の一番奥に連れ合いと陣取っていた。既に入店して二十分程。最初の注文は揃い、お互い二杯目に手をつけている。
男がグラスを傾けるのを眺めながら、女は含み笑いで尋ねた。
「それで、ヒィ、右手に邪神が、フッフフ、や、宿っちゃったわけェ?」
「笑ってんじゃねーぞお前」
「アッハッハッ」
ヒヨシが勢い良く机にグラスを置いたので、私は大声で笑ってクラフトビールを呷る。
すっかりお馴染みになっている新横浜駅前のバー。ツマミにはナッツとサラミ。対面には気の置けない友人。よくある、それでいて完璧な水曜の夜だ。
ヒヨシと私は高校の同級生である。
出会い頭から妙に馬の合った私たちは、在学三年間に渡り悪友と呼べる友人関係を築いた。多分、同性だったら幾度か殴り合ったこともあったろうと思う。子供時代の延長だったこともあり、互いに遠慮というものがなかった。
それぞれのお家にお邪魔する機会も頻繁で、私の両親はヒヨシを気に入っていたし、私もロナルドくんとヒマリちゃんに懐いてもらっていた。私の人生史においてだいぶキラキラとした、一点の曇りもない、青春小説のような友情である。
そして、現実が青春を塗り替えたのは高校卒業後のことだった。
ヒヨシは自他共に認める女好きだ。高校の時からモテていたし、それを”有効活用”してもいた。決して悪い奴ではないのだが、異性交友については悪癖持ちと言って良い。
加えて、学生という身分から解放されてハッチャけたのか、卒業後退治人になって以降は過去に類を見ないほど調子に乗っていた。鼻持ちならないアホカスだった。今思い出してもムカついたので目の前のヒヨシのグラスに無断でアルコールを注ぎ足す。「何するんじゃあ!」と叫ぶ声は無視だ、無視。
当時、「イケメン新星退治人のレッドバレット様」には女性ファンが多くいた。ファンというよりは"フレンド"というか、多いというよりはヒヨシのほうで積極的に増やしていたというか、おおよそそんな感じだ。
語りたくないため説明は割愛するが、私がそうしたファン女性間のイザコザに巻き込まれたことが幾度かあった。正真正銘単なる友人の身分であるにも拘らず、だ。
なんやかんやとトラブルが勃発し、ほとほと愛想が尽きた私は、ヒヨシと疎遠になった。あの頃は本気で憤って、もう一生関わるまいと思っていた。
“一生”が覆ったのは割合早かった。
ヒヨシと顔を合わせなくなった後しばらく経ってから、退治人組合にて「ヒヨシが美人局にあった」と聞かされた。退治人組合には、ヒヨシと遭遇しない時間を選んでたまに飲みに通っていたのだ。
マスターは恐らく気を遣って伝えてくれたのだろう。実際、私にとっては好機だった。即座にヒヨシの元を訪ね、たっぷりの酒と大量のからかいの言葉とほんの少しの計算した労りをミックスして浴びせかけ、泥酔したヒヨシを見事に泣かせるに至った。あれは良かった。高笑いが止まらず、心の底からすっきりした。
この「ヒヨシ泥酔号泣事件」を経て溜飲が下がり、交流が復活した。以降、さすがに堪えたらしいヒヨシの女性関係がやや落ち着いたこともあり、今では普通に飲み友達である。
「あの子は昔からヒヨシに幻想見すぎだよねえ、実際のとこはこんなんなのに」
「こんなとはなんじゃ」
「ねえ、つけ髭外しなよ。グラスに落ちそう。似合ってないし。諦めて童顔キャラで売った方が良いって」
「うるせーほっとけ。おみゃーこそあいつの前で猫かぶりすんのいい加減やめたらどうじゃ」
「やだよ。私、"お姉ちゃん"するんだから」
「そんなんじゃから……」
「何? そんなんだから彼氏と別れることになるんだって?」
「違う! 言ってないじゃろ!」
だってさあ、もう仕方ないじゃん色々あるんだよ大人同士だから。あーもうあれよ、次付き合うなら地元が同じ人が良いな。それと、猫好き。ていうかもう猫飼っちゃおうかな。どう思う? 私的には飼うならトラ猫って決めてるんだけどやっぱり黒猫も捨てがたくない? あとさあ、猫といえばこの子が可愛くってさあ、見てインスタこれ見て。
べらべらと捲し立てながら最近お気に入りの動画を再生する中、ヒヨシがこぼした言葉は、猫ちゃんのキュートさに負けて私の耳には届かなかった。
「あいつが幻想を抱いてるのは、俺にだけじゃないんじゃがの」
▽▲▽
新横は意外と狭い街なので、知り合いにばったり出くわすこともある。
ヒヨシと飲んだ翌日、定時退社後に駅前の帰路を歩いていると、パトロール中のロナルドくんに遭遇した。
「偶然だな。仕事帰り?」
「うん。ロナルドくんはパトロール?」
「そうだけど、なあ、その呼び方やめてくれよ」
「だーめ。お仕事中でしょう?」
ロナルドくんが退治人になって以降、外で会う時は他の人がいなくても退治人名の方を呼ぶようにしている。プライベートへの配慮でもあるし、退治人として働いているロナルドくんを誇らしく思う気持ちもあった。
しみじみと昔を懐かしみながら、真っ赤な退治人衣装を摘まむ。初めてこのコスチュームを着ているのを見たときの感激は筆舌に尽くしがたい。あの小さかった子がこんなに立派になって!と感動したものだ。兄の真似をして選んでいるというところまで含めて可愛くてたまらない。
「あ、あー。送るよ。帰るんだろ?」
「ありがとう」
仕事中に申し訳ないと思うが、この件についてはいくら遠慮しても折れてくれたことはないので、もう甘えることにしている。
そもそも、定時退社した時はよくこういうことが起こる。パトロールの時間と被るらしいが、何となく、ちょっと身内贔屓してくれてるのかもしれないとも思う。
そろそろ日が長くなってきたなあ等と考えながら二人でのんびり歩いていたところ、旋風のようにヤンチャキッズに絡まれた。どうやらロナルドくんの知り合いらしい。
「やーいロナルド年上巨乳好き」
「もう揉ませてもらえたか?」
「オギャラッペパドベバトペー!!!!」
ロナルドくんの顔は一瞬にして茹で上がり、何かしらの音を喚きながらバタバタとした動作で小学生たちを威嚇した。小学生はプークスクスと笑いながら駆けて行く。
退治人ロナルドの好みのタイプは既に新横浜中に知れ渡っている。多分住人の七割とか、それくらいには。正直言って、今更特に感想はない。
それでも本人的には気まずいようで、ロナルドくんは明後日を向いている。助け舟のつもりで、無難な話題を口にする。
「そういえば、昨日お兄さんと会ったよ」
「兄貴に? 俺もこの前会った」
「うん、聞いた」
右手の邪神の話を、などと繋げて吹き出さない自信がないので、ニヤニヤと上がろうとする口角を抑えて笑みを留めた。
人間、三十代ともなると己を過不足なく欠点ごと見つめることができるもので、私は「他人をおちょくることにそれなりの楽しさを見いだすタイプ」だと自覚している。
先程の小学生たちの気持ちも分かる。あんなに面白い反応をしてくれれば、さぞかし揶揄っていて楽しいだろうと、内心頷く。私だってロナルドくん以外の人間にならそうしたかもしれない。もちろん相手との関係性は選ぶが、それこそヒヨシ相手なら指差して笑ってやるところだ。
だが、ロナルドくんの前ではいけない。私にとって彼は特別なのだ。
一人っ子の私にとって、初めてロナルドくんとヒマリちゃんと対面した時の喜びは、はっきり甘美さを伴っていた。
私はずっと妹か弟が欲しかったのだ。小さい頃は「なんでうちにはきょうだいがいないの?」と泣いて母親を困らせたこともある。
姉願望を拗らせた私にとって、年下のかわいこちゃんが腰のあたりにまとわりついて一生懸命話しかけてくれることの喜びと言ったらなかった。二人とも、兄の友人である私に対して、最初からよく懐いてくれた。
大いに気を良くした私は、十余年分の理想を実行に移した。つまり、ここぞとばかりにお姉さんぶった。ロナルドくんとヒマリちゃんは大変に素直な子供たちで、私を「おねえちゃん」と呼び歓迎してくれた。ヒヨシが退治人になってしばらくは、多忙なヒヨシに代わり留守番をしたり食事の用意をしたこともある。
長い付き合いの中で、ヒマリちゃんは徐々に私の素の性格を理解するようになった。今では女子会を開いて素敵なカフェで話し込んだりする、すっかり仲良しの友人のような関係である。
ロナルドくんの方はと言うと、驚くべき純真さで、なんと未だに私の作り上げたお姉さん像を信じてくれている。それを良いことに、私はずっと「理想のお姉さん」のロールプレイングをやっている。ヒヨシには散々「猫かぶり」と揶揄されているが、この先もやめるつもりはない。この理想と心中する覚悟である。
「さっきの子たち、かわいかったね」
「かわいいかあ?」
「懐かれてるもんねえ」
恐らくあの気安さは、ロナルドくんの面倒見の良さに対する親しみも多分に含まれているとは思う。私の可愛い弟(仮)は、懐が深く頼り甲斐があって、とても心根が優しいのだ。無論、揶揄われてる立場からすると大変だろうとも思うが。
「ロナくんも昔はあんなだったよね。ロナくんはもっともっと可愛かったけど」
「覚えてんの?」
「もちろん。ロナルドくん、昔はこーんなにちっちゃかったのにね」
言いながら、人差し指と親指で数センチ程度の隙間を作って見せる。
面倒くさい親戚のようなボケにも、ロナルドくんは「いや、さすがにそんなに小さくはなかったろ」と律儀に突っ込んでくれた。本当にいい子である。
「それが今やこんなに立派な退治人になって、お姉さんは鼻が高いなあ」
私のゴキゲンな言葉に、ロナルドくんは
「……姉さんじゃ、ないだろ」
と零した。
ちょっと、傷ついた。
別に、今に始まった話ではない。
昔は「うちの子になってよ」という軽口に「うん!」と満面の笑みで応えてくれていたロナルドくんだが、高校生の頃にはそんな良い返事をくれなくなっていた。寂しい。小学生と高校生でまったく同じ調子のわけがないけれど、寂しい。他人の姉を名乗る私の方が社会的には胡乱であり、ロナルドくんは健全でまっとうな成長を遂げたとは思うが、寂しい。寂しいものは寂しい。
「ロナくんが弟だったらいいのにって、ずっと思ってるよ」
駄目押しで告げてみる。
私の中ではなんだかずっと、出会った時の小学生のロナルドくんの印象が強いのだ。ロナルドくんを思い浮かべる時に出てくるイメージは、「ちゃん」と呼んでくれる舌っ足らずなボーイソプラノと、壁画の天使みたいな男の子だ。公園で自慢げにダンゴムシを見せてくれて、ヒヨシの代打で私が用意した簡素な夕飯を美味しい美味しいと食べてくれ、鼻歌を歌いながらアイスの棒の鉢植えに水をやっていた可愛い子。もちろん今だって可愛いけど。
ロナルドくんは私の言葉に応えずむっつりと黙り込んだ。やはり不快だったのだろうか。ヒヨシの言う通り、「猫被り」ももう終わりにする時なのかもしれない。
しばらくの間、途切れた会話を足音が埋める。家に着く頃になって、不意にロナルドくんが口を開いた。
「さんはさあ……兄貴と、その」
「んー?」
「兄貴と……ケッコン、しねえの」
「えっ、ええ?」
まったく予想外の言葉に驚き、足が止まった。ロナルドくんも私に向き合う形で立ち止まる。
結婚? ヒヨシと私が?
「いや……えっ、なんで?」
本当になんで?
考えたこともない発想に脳の処理が追い付かず、上手く反応できない。何とか出力できたのは、言葉にも満たないような戸惑いだけだった。
「悪い、踏み込みすぎてるとは思ったんだけど」
ロナルドくんは言いづらそうに視線を地面に落とした。
「兄貴が退治人やってた頃、仕事の邪魔にならないように陰で支えてただろ。そんで、兄貴が吸対に入ってからはまた隣で支えてさ。俺、ずっと見てきて、二人のことすげえと思ってるんだ」
どうしよう。私の知らない私の話が展開されている。
支えていたことなど一度もないし、覚えもないし、何ならヒヨシが退治人やってた後半の頃は顔も合わせてなかったし、吸対に入ってから交流は復活したけど飲みにしか行ってないし。
私が混乱して動揺している間も、ロナルドくんは訥々と言葉を紡ぐ。真心が音になって溢れたみたいに誠実な響きで、うっかりすると胸を打たれそうだった。
「俺がどうこう言えることじゃないけど、もしふたりが結婚したいなら、応援するから」
ロナルドくんの張り詰めた表情に真剣なんだと悟った。
真剣に、誤解されている。
「あの、ロナルドくん」
呼びかけた声は、ロナルドくんの真摯さにつられてやたらと深刻な響きになった。
呼んだからには何かを言わなければならない。言葉を繋げるまでの僅かな間にぐるぐると思考を回す。どう言えば穏便に誤解を解けるだろうか。どうやらロナルドくんは、私とヒヨシの関係が男女として特別な上に、何かひどくドラマチックな事情があると固く信じているらしい。
実際のところ全くの事実無根である。なるべく傷つけずに、恥をかかせない方向で勘違いしている旨を伝えたい。
「……私、君のお兄さんとは付き合ってないの」
結局ストレートな物言いにしかならず、転げ出た言葉ごと舌を噛みたくなった。
「えっ?」
ロナルドくんは面食らったように口を開けた。言葉そのものを咀嚼できていないように見える。
「なんで? わ、別れたってこと?」
ロナルドくんが傷ついたような表情をした。慌てて余計な情報まで口から滑り出る。
「ううん、たしかに最近彼氏とは別れたけど、ヒヨシとは付き合ってたこと自体ないよ」
「は?」
「あの、だから、昔からただの友だちっていうか」
余計な部分をカットして再度念押しした。ロナルドくんが目を瞬かせる。海みたいに揺れる青色が、じわじわと理解の色を帯びはじめるのが見て取れた。
「え……え? 学生時代は?」
「付き合ってない」
「兄貴が退治人やってた時は?」
「ないです」
「引退して吸対に入ってからも?」
「ない。本当に、いっときたりとも、君のお兄さんと付き合っていたことはないです」
「えっ、え!? ええええええええ!?」
とうとう理解が追い付いたらしく、ロナルドくんは天地が割けたかのごとく絶叫した。
「嘘だろ、俺、ずっと……高校の時から二人が付き合ってるって……」
「そんなに長いこと誤解してたの!?」
今度は私の方が仰天した。
と、いうか。
「ヒマリちゃんとか、私が彼氏いたの知ってるけど……」
「エエーッ!?」
ヒマリちゃんとは、元彼とデート中に会ったことがあるし、別れた後も話を聞いてもらったので直近の私の恋愛事情は把握されている。ああでも、ヒマリちゃんの口数の少なさからして、そういう話を他人と共有することもないのかもしれない。
妹の情報が追い打ちになってしまったのか、ロナルドくんは呆然として動かなくなった。魂が抜けたような顔に心配になる。発端はさて置き、私のフォロー下手が引き起こした事態だ。どうにか励ましたい気持ちで、取り繕うように声をかける。
「あの、ヒヨシとは、その、何でもないんだけど。でもロナルドくんが応援してくれたのは嬉しいよ。結婚願望自体はあるし、新しい人見つけなきゃね」
「えっそれ俺でもいいってこと?」
「えっ? うん」
「はっ!? えっ!? えっ!?!?」
「……えっ!? あれ!?」
勢いだけの会話を何かが滑り抜けた。さっきから冴えない頭では己が何を言ったのか分からないが、確かに言った。何かを言った。
──俺でもいいってこと?
──うん。
「待って、あの、いやごめん、今の違」
「違うの!?」
「や、違──くはないんだけど、違わないっていうか、あの、待って、ウソ、やだぁ……」
不明瞭な文字の羅列を口から垂れ流して両手で顔を覆った。まったく意味のない言葉だ。その点、顔色は言語より雄弁で、私の状況を正確に物語っていた。未だ捉え損なっている内心なんかよりもずっと明瞭だ。主観的な胸の内の混乱を、客観的な反応が先に規定する。
だってこんなの、誰が見ても分かってしまう。女子中学生がごとく照れているのだ。
ロナルドくんは可愛い弟だ。弟みたいなものだ。その言葉に嘘はない。いつでも心から口にして、そう望んでいた。
でも。
顔を覆う手の向こうでロナルドくんが息を飲んで、それから居住まいを正す気配がした。
「あの、俺」
ロナルドくんは私の反応に勇気づけられたようだった。帽子を脱いで胸に当てたのが、俯いた指の隙間から見える。
「俺、兄貴みたいにすごい退治人にはまだなれないけど、いやさんと兄貴とは付き合ってなかったわけだから関係ないかもしれないけど」
「でも俺ぜったいもっと、ずっと、兄貴くらい強くなる」
「だから、俺のこと、弟以外に考えてくれない?」
帽子を持っているのと反対の手で、ロナルドくんは私の手を取った。震える指先に促されて、覆っていた視界が開かれる。
もうとっくに私より小さくないし、声も高くない。「ちゃん」と呼んでくれていた時のようにすべすべの小さな手ではない。固い掌は、爪の先まで燃えるように熱い。
この子は、弟ではない。
目の前にいるのはずっと知っている可愛いロナルドくんで、同時に、初めて知った男の人みたいに見えた。
退治人衣装と同化した顔色のロナルドくんが、「ど……どうですか?」と言葉を重ねる。
昨夜の自分の軽口を思い出す。
──付き合うなら地元が同じ人が良いな。それと、猫好き。
「…………あの、ロナルドくん。猫って好き?」
私がようやっと口にした言葉は、なんだかアイラブユーに似て響いた。
シンヨコロマンティカ・ドリームキラー
2025/05/06