この事務所を訪れる面々は、九割がアポなしでやって来る。
依頼人から顔見知り、人間から吸血鬼まで万事その調子であるが、今日の訪問者は残りの一割に含まれる貴重な賓客だった。

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約束の時間、唇を固く引き結んだ人が、事務所のドアの前に立っていた。

「本日は、お忙しい中お時間いただきありがとうございます」

角張った挨拶と共に深々と頭を下げた女性は、ヒマリの大学の先輩であり、吸血鬼民俗学を専攻している大学院生だ。今取り掛かっている研究の参考にしたいとのことで、ヒマリの紹介で取材を受けることになったのである。
院生ということは、歳はそう変わらないにしろ、社会に揉まれた経験としては自分の方がずっとあるはずだ。だと言うのに、目の前の人はひどくしっかりとして見えた。きちんとまとめた髪にピシっとスーツを着込み、名刺まで持参して、会社員をやっている友人と変わりない佇まいをしている。
吸血鬼退治人は子供の頃からの夢だ。自分の仕事にはプライドを持っているし、はっきり充実していると言える。それでも、どうにも、こういう「きちんと」した同年代には弱かった。あるいは、学生生活を通じて今日に至るまでオベンキョウを避け続けた後ろめたさが、未だに影を踏むような居心地の悪さとして残っているのかもしれない。
とは言え、仕事は仕事である。やや構えながら応対したものの、「著書、いつも拝読しております」と言われて一瞬で相好を崩した。同時に内心の引け目も崩れた。
どもりながら礼を述べると、自意識がどうのこうのお世辞がどうのこうのとドラルクから揶揄われたが(殺して砂絵にした)、実際読み込んでくれているらしく、彼女が持参したロナ戦は貼り込まれた付箋で膨らんでいた。「一巻で記述されていた九十九吸血鬼の発生場所ですが」「三巻の四章で描写されていた吸血鬼の発言に関して」と、インタビュー中も驚くほど子細な言及に富み、面映ゆい気持ちと共に自然と背筋が伸びていく。
実に学術的な会合だった。彼女はひどく真剣な目をして、こちらがひとつ質問に答えるたびに律儀に礼を言い、畏まってメモを取っている。
すっかり没頭して話し込んでいると、ゲームに興じていた享楽主義の同居人が性懲りもなく首を突っ込んできた。

「随分詳しいね。もしかしてロナ戦ファン?」
「えっ、は、いえ、あの」
「引っ込んでろクソ砂! すみません、失礼なことを」
「いいえ、あの……すみません」

オウム返しの謝罪を述べた彼女は、今までの生真面目を崩して照れたような表情をしていた。謝る理由が分からず戸惑っていると、「あの、実は本当にファンで……」と口ごもられ、二人して赤くなってしまう。まごついた空気に対して、再生中の吸血鬼が何かしら言おうとする気配を感じ、追加で二、三度プレスした。舞い散る砂塵の向こう側から、ボソボソと恥ずかしそうな声が届く。

「すみません、余計な情報をお入れしたくなかったので、ヒマリちゃんにも口止めをお願いしていて……。でも、本日は真面目に研究のために来ておりますので!」

慌てて宣言する彼女に「分かってます」と答える。安堵の息を吐いて眉を下げたその表情に、何だか喉元がムズムズした。
その後、インタビュー自体は宣言通り真摯に執り行われたものの、雰囲気は先程よりぐっと打ち解けた。彼女が映画『ヘルシング』がきっかけで研究の道を選んだと分かり、大いに盛り上がった場面もあった。また、会話の流れで、今書いている原稿の参考になりそうな最新の研究資料について教えてもらい、こちらとしても大変に実りのある対面となった。

「ありがとうございました」

最初と同じく深々と礼をする彼女を見送る。

「ロナルド君、サインの一つでもしてあげたら? まったくゴリルド君は気が利かないねえ」
「バカ野郎、ふざけたこと言ってんじゃねえ! そんな……い、いりますか?」
「欲しいです!」

今日一番の大声に思わずドラルクと同時に彼女へ顔を向けると、「あっ」と口を抑えたその顔がみるみる赤く熟れていった。

「あの……いただけるのなら、是非」

口元の手はそのままに、羞恥に染まった頬と潤んだ瞳で、絞り出すように囁く。こちらを見上げる彼女の瞳を見ていると、今度は鎖骨のあたりがむずがゆくなり、思わずポリポリと指で掻いた。

「じゃあ、その、書きます」

本を受け取って、サインを入れる。必要か聞いたら是非にと請われたので、彼女の名前も入れて返した。溌剌とした雰囲気を滲ませた女の子が嬉しそうに本を受け取る。

「本当に、何から何までありがとうございました」
「こちらこそ。お薦めしてもらった文献読んでみます。また聞きたいことがあったらいつでも連絡してください。えーと、ヒマリに伝えてくれれば良いので」
「ありがとうございます」

サイン入りのロナルドウォー戦記を胸に抱いた人が、事務所のドアの前で綻ぶように微笑んだ。

△▼△

後日、「先日のお礼です」と手紙と菓子折りが届いた。
手紙には端正な字で丁寧なお礼が綴られており、先日応対した人柄をそのまま写し取ったようだった。
壊れ物みたいにちっちゃくてピカピカの、いかにも高級そうなチョコレートを口に入れると、上品な甘さとほろ苦さが舌に溶ける。

郵送じゃなくて、直接渡してくれれば良かったのに。

そう思ってしまった理由を深く考えることなく、二粒めのチョコレートを摘まみ上げた。

向春の候

20220212

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