金曜日の夜。救援に呼ばれた退治に想定よりも人数が集まり、時間がかかるはずの仕事は思っていたよりずっと早く終わった。自動的に、この仕事のために確保していた俺のスケジュールは空白となる。
さて、どうしたものか。
持て余した時間の使い道を考えながら事務所に戻ると、握ったドアノブに違和感を覚えた。鍵が空いている。確かに閉めたはず、と訝りながらドアを開ける。
「あ、おかえり」
「来てたのか」
「ん。おつかれさま」
生活スペースのドアから既知の人間がひょっこりと顔を出した。時間を考えると仕事帰りにそのまま寄ったのだろうが、既に触り心地のいいタオル地の部屋着に着替えている。
「ドラ公は?」
「私が来た時にはいなかったよ」
居住者不在の部屋に入れたのは合鍵を渡しているからで、会社から直行なのに着替えているのは俺の家に服を一式置いているから。
つまり、は俺の恋人である。
「今日はもう終わり?」
俺が着替えて部屋に戻ると、はソファに座っていた。「終わったぜ」と答える声がわずかに高揚したのは、それが二人の間で成立する儀式めいた合言葉だからだ。
「じゃ、おいで」
やわらかい微笑みに、手招きをひとつ。それだけで、吸血鬼にチャームをかけられた人間よろしくフラフラと引き寄せられ、俺はの隣に収まる。
「ロナルドくん手ぇ出して」
「手?」
が「これ塗るから」と持ち出したのは、うすく色づいたマニキュアだった。
「灰色?」
「シルバーだよ。ロナルドくんの髪の色。赤も良いと思うんだけど、ドラルクさんと同じじゃ嫌かなって。ほらこれ、パール入ってて綺麗でしょ」
確かにドラ公と同じは嫌だ。色そのものがと言うよりは、「さすドラ」とか何とかドヤり散らかしながら絡んでくるのが目に見える。パール、はよく分からないけど。とにかく、つまり。
「塗るってこと? 俺に?」
「うん。駄目?」
見上げながら問われて、首を横に振って否定する。可愛い恋人に提案されて駄目なんてことは、基本的には存在しない。それに、退治人にはマニキュアで指先をコーティングしている奴もいる。俺は骨も歯も爪も強いので、使ったことはないけど。
「足の爪切るよりは有意義でしょ」
今までに何度も聞いた、お決まりのフレーズを告げられる。からかうような口調に、響きはとびきり優しかった。
“爪切り”は、俺たちの間で――主にから、たびたび引き合いに出されている話題だ。
今日と似たような状況で、俺が「時間空いちまったなあ。足の爪でも切るか」と零した際、に大層驚かれたことに端を発している。は多趣味なたちなので、暇つぶしの最初の選択肢に爪切りが上がるのはひどく衝撃であり、俺に対して半ば憐れみに近いものを覚えたようだった。以来、俺の暇つぶしの選択肢を充実させようと熱意を燃やし、様々な提案をしてくれる。
ぺたり。手を取られて、小さな筆先が俺の爪の上を滑る。よくぞこんな器用なことができるものだと感心した。俺には無理だ。やったことはないが、自信がある。
「お客さん、ご気分はいかがですか?」
「なんか塗られたとこスーッてする」
淀みなく動く手を眺めていると、十本の爪はあっという間に銀に彩られた。これで終わりかと思ったら、更に透明のマニキュアが取り出される。
「それ何?」
「蓋」
色付きの時と同じ手際の良さで、両手の爪がツヤツヤになった。仕上げとばかりに細い息を吹きかけられる。指先がひんやりして、背筋にぞわぞわとした感覚が走り抜けた。
「完成! しばらくじっとしててね。乾く前に動くと爪がビッてなるから」
「しばらくってどんくらい?」
「完全に乾かすなら、三十分は見たいかなあ」
「そんなに!?」
自慢じゃないが、そんなに長時間じっとしていられたことなど人生で覚えがない。仰天した俺に、はくすくす笑いながら抱き着いてきた。
柔らかい。可愛い。嬉しい。えっ、何?
予想外の行動と動かせない手に意識を取られて固まっている間に、はもぞもぞと定位置を探し、やがて俺の胸にぴったりと耳をくっつける形で落ち着いた。「これでもう動けませーん」と機嫌よく宣言している。
「ロナルドくんにはきついかもしれないけど、我慢してね」
「いや……きつ……ウン……」
確かにきついけど、が想定しているものとは少し違う気がする。いや、良いんだけど。俺は強いので我慢できる。
それに、俺はが自分のために考えてくれることがいつだって嬉しいのだ。
「何もしない時間も贅沢でしょ」とやわらかく囁く声に頬を寄せ、成すすべなく両手を挙げた。
金曜日の暇つぶし
20221023