血が足りない。
長い潜伏期間を経て弱体化する一方だ。とにかく、血が足りない。今夜こそは獲物を狩らなければ。
ナギリは、かつての記憶に比べると遥かに鈍く重く感じる体を引きずって根城を出た。
吸血(すい)でのある奴がいい。理想は、健康で柔らかそうな、か弱い女。
ナギリが目標を定めて裏路地に潜んでいると、お誂え向きに女が一人で歩いてきた。近くに他に人の気配はない。
女の進行方向を塞ぐように、音もなく暗闇に姿を現す。女は街灯の下で立ち止まった。突然現れた大男を警戒しているのだろう。ナギリは緩慢な歩みで近づいてゆく。女は鞄の肩紐をギュッと握りしめ、それから、ふと何かに気づいたように、寄せていた眉を緩めた。
「……──くん?」
疑うような調子で自信なさげに、けれどどこか確信を持った声色で零したのは、ナギリの"知らない"名前だった。それなのに、ナギリの記憶の底で赤いランドセルが揺れた。そのまま、断片的に画が切り替わる。破れた膝小僧と、滲む血。差し出されるティッシュ。ティッシュケースはキャラクターもの。俺は持っていなかったから、触らせてくれて嬉しかった──……。
ふらりと、ナギリの身体が傾ぐ。背後のブロック塀に右肩をぶつけたらしい痛みを、どこか遠くのほうで鈍く感じる。
平凡な女だ。少しくたびれたスーツを着て、この時間まで仕事をしていたなりに疲れた顔をしている。毎日やり過ごしながら生活を送る、どこにでもいる、普通の女。
普通の、人間。
「あの、」
「うるさいッ!」
再び呼びかける気配を感じ、ナギリは反射的に声を出した。ぜいぜいと鳴る喉を掻き抱く。
「知らん……そんな奴は……知らん!」
女が大声に怯えたような表情をするのを見て、ナギリは充足感を得た。同時に、刺すような寂寥が喉元までせり上がる。ない混ぜの感情に、また思考が乱れる。
「俺は、辻斬りナギリだ!」
ぐちゃぐちゃの胸の内を振り払うように叫んで、物言いたげな女の顔を視界から外す。ナギリは背を向けて、光の当たらない方へ走った。
名前のない怪物
2023/02/15